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ストップ!!ひばりくん! [昭和]

昨日土曜日(23日)は、苦し紛れにたまたま自分の着ていた、

バカボンパパのキャラクターTシャツをネタにしてしまいましたが。

じゃ、今日も安易に、マンガのキャラクターで行こうかと・・・。


お若い方(40代前半以下?)はご存知ないかも知れませんが、

「ストップ!!ひばりくん!」というマンガが1980年代初頭、

週間少年ジャンプに連載されておりました。

ストップひばりくん.jpg
↑これで、実は男の子。

このマンガ、なんと!「オカママンガ」なんですよね(笑)。

関東大空組という弱小ヤクザ一家内のドタバタギャグマンガです。

内容は端折りますが・・・。

大空いばりというヤクザの親分に娘が4人いて、いずれも美人ぞろい。

3番目の「ひばり」はどこからどう見ても美少女だが、実は男の子。

学校でもごく一部の者しかその正体を知らず、

ひばりくんは校内中憧れの才色兼備の美少女優等生。

ヤクザ一家の4人娘が美人ぞろいで、そのうちの1人が実は男という設定の落差が面白い。

もちろんヤクザの親分とはいえギャグマンガですから、

親分さん以下登場人物も全身ギャグっぽいので安心して読めます。


著者は江口寿史氏で、連載は2年程らしいですが休載などもあって、

全35話と意外にも短く終わった作品だったようです。

アニメ化もされたので、もっと息の長い作品かと思ってました。

未完のままだったそうですが、2010年加筆して完成させたそうです。


当時私は20代でしたが、コミックス持ってました。

ストップひばりくん1.jpg

ひばりくんの、男に生まれたのに女、っていうキャラクターに凄く惹かれました!。

全巻揃えても2〜4巻なので、また買って読んでみようかと思ってます。

今思うとひばりくんはMTFだったんでしょうかねえ?。

知らない方は一度読んでみては?。

MTFさんなら、ひばりくんに憧れる・・・、かも?、です。


ストップ!!ひばりくん!ウィキペデア資料
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ディスコブームの頃(青春の思い出とか 9)〜 国道101号線 [昭和]

私が20〜1歳くらいだったか?、池袋にいた頃です。
当時は「サタデイ・ナイト・フィーヴァー」のヒットなどで、ディスコブームが沸き起こり、そこら中にディスコが乱立していた時代でした。
サタディナイトフィーヴァー.png
そうそう!、この間亡くなられた西城秀樹さんのYMCA(ヤングマン)も、そこ頃のヒットナンバーで、オリジナルは「ヴィレッジ・ピープル」という、ゲイ・バンド(男性6人組で全員ゲイだということですが真相は不明)の、大ヒット曲なんですよね。
日本語版は応援歌のような歌詞ですが、オリジナルは男性から若い男性へのラヴ・ソングらしいです
?。
70年代前半までのプログレなどの小難しい曲が勢いをなくし、ダンサンブルでキャッチーで聴き易い曲が受けるようになり。
ニューウェーブと呼ばれた、スカやレゲエなど踊れる曲がヒットチャートの上位を賑わしておりました。

ディスコは大盛況で、ひょんなことからディスコのDJさん(今のDJと呼ばれる方々とは違い、ラジオのDJに近いかも?)と知り合いになり、音楽談義などを時々しておりました。
でも、当時の私はディスコミュージックが大嫌い(今は大好き!)で、DJさんとは意見が合わず話も噛み合いませんでした。
でも彼、声が超低音でDJやらせるとカッコいいんですよ!。
残念ながら当時の私はジャズやクラシック、プログレを崇高な音楽と信奉し、踊る音楽など邪道だと馬鹿にしておりましたので。
DJさん、申し訳ありませんでした、若気の至りです・・・。

DJさんと意見が合いませんでしたが、同じディスコで働く、テレビのリポーターを目指していたMさんとは妙にウマが合い色々な話をしました。
彼女、結構悩んでいて、テレビの仕事が来て喜んで仕事を受けたものの失敗してしまって、やっぱりテレビの仕事向いてないんじゃないか、とか。
カメラを前に緊張してしまって、思うように喋れなかったらしいんです。
リポーターが喋れなければ致命的ですからね。
その後も夢に向かって頑張っていたようですけど、今まで彼女をテレビで見ることはありませんから、駄目だったんでしょうね・・・
マスコミ関係の仕事は超厳しいし、並みの神経じゃ務まらないようです。
彼女、秋田県の出身で、秋田市の北、八郎潟の生まれだって言ってましたけど。
今どうしてるんでしょうか?、会えたら嬉しいけど。
お互い歳をとりましたからね、もし会えたら顔を見合わせて笑っちゃうかも知れません。

まさか、Mさんがこのブログ見てるはずはないとは思いますけどね(笑)。
Mさんと会っていたのは、私が肩を超える長髪で。
まだ若く、見た目が一番女っぽかった時期と重なるので、ひょっとすると「この人、なんか変、ひょっとして?」って思われていたかも?。
もちろんその頃も女らしくなりたいとずっと思っていて。でも、本心は誰に言えず、ひた隠しに隠していました。
1970年代末期の池袋って、結構「オカマ」さんとか夜の街にいましたけど、私は嫌悪感を持って彼ら(彼女ら?)見ていました。
何故なら、どなたも単に女装した男にしか見えなかったからで、絶対にこうはなりたくないと思っていたからです。
私がなりたいのは普通の女性であって、女の格好をした男ではないのだと。
女性になるのは無理なのだから、それならどっちつかずの中性でいいや!、と。
思えば、今も私はこの頃とまったく変わっていないようです。


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関係ないけど、秋田と青森行ってみたい!。
そうなんです!、以前から国道101号線全線走破したいって思ってたんですよ。
国道101号線.png
国道101号線は青森市から秋田市に至る国道で、途中「鰺ヶ沢」から沿線中心の町「深浦」を経由して「能代市」付近まで海沿いに道が続きます。
3桁国道の一番最初の番号っていうのも何か嬉しいし(59〜100番は欠番なので)。
鉄道だと「JR五能線」も国道に並行して走っています。
亡くなった私の親友も五能線乗りたいと言いつつ、果たせなかったので。
日本海と白神山地を眺めつつ、親友が果たせなかった分と、秋田出身のMさんを思い出しつつ走ってみたい!。


※ お詫び ー この(青春の思い出とか)、の番号6が重複してたみたいで直しました(笑)。
で、これが、たぶん「9」です。
間違ってたらまた直します m(_ _)m 。
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たばこ [昭和]

何か描き忘れてないかと考えたら、ありましたよ!。
「たばこ」です。
やめてだいぶ経つし、たばこのことなんかすっかり忘れてました。
私の若かりし頃、昭和40〜50年代はたばこは吸って当然、吸わない方が珍しがられた時代です。
私がたばこを吸うきっかけは、映画(何かの恋愛洋画?)だったと思うのですが?、今ではよく覚えておりませんが。
吸わないと大人と認めてもらえないような、そんな変な雰囲気があったような気がします。
とにかく当時は、家の中、道、街のあらゆる場所はすべて喫煙所といっていいくらいで。
街中のあらゆる施設には灰皿が備えらていて。
鉄道も山手線・京浜東北線・中央、総武線、大手私鉄くらいしか禁煙車はなかったような?。
駅もホームもそこら中に灰皿があって、皆さん平気でスパスパたばこ吸ってましたね。
今では到底信じられませんが。
それが当たり前な風景であり、たばこを吸うのはドリンクを飲んだり、ガムを噛んだり、飴を舐めたりするのと同じと考えられていたのです。
むしろガムや飴は仕事中や会議中口に入れていたらあまりいい顔をされないでしょうが、たばこなら許される雰囲気がありましたし、職場のデスクには大概灰皿が置いてあったはずです。
たばこと灰皿.jpg
そういえば少し前こちらのローカル放送局で、昭和50年代前半の懐かしテレビドラマ「俺たちの旅」を放送していたのですが。
主演の中村雅俊さんをはじめ、登場人物が平気で喫煙するシーンが沢山出てくるんですよね。
今ならクレームが殺到すること間違いなしでしょうが、当時はそれだけごくごく普通のことだったのです。
もちろんたばこの箱の横に「健康のため吸い過ぎに注意しましょう」との警告文が書かれてありましたが、誰も本気で気にしていませんでした。
現在の肩身の狭い思いをしている喫煙者とは正反対、誰構わずどこでもでかいツラして遠慮せすたばこを吸っていて、それが当然の時代だったのです

※たばこの害については20世紀初頭には既にわかっていたのですが、各国共にたばこは貴重な財源(たばこ税)だったため禁煙を促すことはできなかったようです。

で、私の禁煙はとても単純、簡単でした。
禁煙外来に行ったとか、何かの禁煙グッズを使ったということもなく。
禁煙して、眠くなるとか吸いたくて辛いということもなく。
あるきっかけで吸うのをやめ、禁煙以前も以降もまったく生活に変化はなく、それ以降まったく吸わず今日に至っています。
なぜ苦労せず簡単に禁煙できたのか、自分でもわかりません。
禁煙時、1日、2〜3本しか吸ってなかったからかも知れませんし、そんな体質なのかも知れません。
今もまったく吸いたいと思いませんし、もう死ぬまで吸うことはないでしょう。
ま、吸ってもいいことないしお金もかかるし(これからどんどん値上げするようです)、今は吸う場所を探すのにも苦労するそうで、やめて正解だったのでしょうね。
もちろん、たばこは嗜好品であり、他の人の迷惑にならなければ吸うのは構わないとは思いますけど。
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「いもや」閉店 (青春の思い出とか 8) [昭和]

東京神保町の「いもや」が閉店したそうですね。

いもや.png

ネット記事を見て驚きました。

神保町で仕事してた頃はお昼によく食べてましたから。

昭和50年代には天丼の店、天ぷら定食の店、トンカツの店があって、

私は主に天ぷら定食の店に通ってました。

最近は天丼とトンカツの2店だけになっていたそうですね。

神保町に行ったらまた食べたいと思っていたのですが、なかなか行く機会がなくて。

みなさんご存知神保町は古本屋街です。

職種は言えませんが、私は古本屋で働いていたわけではありません。

でも、白山通りと靖国通りが交わる辺りをウロウロしてました。

働いていた職場が酷い労働環境で、毎日3〜4時間の残業は当たり前。

酷い時は深夜3時くらいまで仕事してて、

終電終わってて帰れないのでビジネスホテルに宿泊。

こんなのがずっと続くので体が参ってしまう。

しかも当時は週休2日はまだ完全に普及していませんでしたので、

休みは週1日しかありませんでした。

今なら労働基準法違反かも?。

毎日フラフラになりながらの唯一の癒しが、

昼時の「いもや」の天ぷら定食だったのです。

本当かどうかわかりませんが、当時は確かご飯はおかわりが自由にできて、

でも、おかわりして残すと追加料金取られるとか聞いたことが?。

神保町には他にも餃子の「おけ以」(今は飯田橋に移転)とかありました。


結局、1年程で耐えきれずに退社。

こうして私の東京暮らしは終焉を迎え、目出度く都落ちと相成りました。

そして次の居住地、群馬県高崎市へ。


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おっぱい大きくなったせいで、胸が、気になって、気になって、気になって〜〜〜。

ついおっぱい記事を書きたくなってしまうのですが、

でも、おっぱい記事ばかり書くのもなんだし・・・。

と、言うことで、今日は、おっぱい記事アメーバの方に書きました。
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草津温泉 ストリップ・バック・バンド(青春の思い出とか 4)   [昭和]

23日の噴火は死者も出てしまい、かなり困った状況なようです。
私的には「また、煙上げてるのか」くらいの認識だったんですが、今回の噴火は以前とは違うらしいですね。
何より噴火がいつもの湯釜付近ではないそうです。

草津町は全国でも一二を争う硫黄泉で知られる温泉町。
もちろん滋賀県にある草津市とはなんの関係もありません。
気温は北海道並みで夏は避暑地として涼しく最高の場所ですが、冬は真冬日が普通だったりしてとても寒いですが今はスキーシーズンの書き入れ時で、そんな時の噴火被害。
既に風評被害でホテルのキャンセルも多いとか。
観光業で成り立っている町ですから早い噴火の収束を願いたいところでしょう。
かく言う私も若かりし頃、草津町に住んでいた元住民として心配しています。

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若かりし頃(確か19歳だったかと?)、私は草津温泉のホテルでバンドマンとしての第一歩を踏み出しました。
温泉は硫黄泉で独特の匂いがし、町中硫黄泉の匂いが絶えず漂っていました。
町で生活し始めた当初は閉口しましたが、意外とすぐに慣れました。
住居は無料、昼夜いつでもホテルの温泉入り放題(当時無料の露天とかもあった)、食事も基本的にホテルの食堂で安く食べられ割と快適な生活でした。
仕事はホテル内のナイトクラブでの演奏。
バンドはテナー・サックス、キーボード、ベース、ドラムスのカルテット。
バンマス(バンド・マスター)はサックスの人で、ギター&ヴォーカルも兼任。
演奏する曲は演歌、ムード歌謡、時には洋モノのポップも。
もっとも本気で我々の演奏を聞いてくれるお客さんなんて皆無!。
それもそのはず、ナイトクラブの売りはストリップショーで、バンドはストリップショーのバックバンドだったのです。
つまりバンドは踊り子さんの引き立て役で添え物程度。
ま、これでも少ないながらお金貰えたのはとても嬉しかったんです。
何はともあれ、自分の演奏がお金になったわけですからね!。
お客さんはみんな酔っぱらいで、中には気前がいい人もいて数万円をチップとしてくれる人も!。
もっとも酔いが覚めてから「申し訳ないが、酔ってのことだったので返してくれ」と・・・。
結局、まともにチップなどもらったためしはありませんでしたが。
何と言っても1番の思い出は、踊り子さんのおねえさん(おばさん?)がバンマスの目の前で、股間を隠していた布をわざとパッと取っちゃっておねえさんのアソコが丸見えに(笑)。
バンマスは演奏中なのにサックスが吹けなくなってしまいました。
踊り子さんはお客さんに対しては絶対こんなことはしませんから、バックバンドへの冗談かサービス?だったのでしょう。

草津での生活は快適だったのですが、ここに居ては世に出られないと、東京へ戻ることに。
今思うと、やはり若気の焦りだったのでしょうね。
なぜもう少しジックリと腰を据えてやらなかったのかと後悔しております。
そうしていれば、後々の人生も変わっていたと思います。
今更もう遅いですが・・・。
嗚呼あああ!、私っていつもこうなんですよね。
いつも後悔ばっかり・・・。



ネタがないのでどんどん自分の過去を暴露してるような気が(笑)。
まさか、当時の私を知る人たちがこのブログ読むとは思えませんし、読まれたらかなり恥ずかしいですが。
もし読まれたら、「えっ!、あいつ男やめる気なんだ」
「小ちゃくて髪の毛長くて、もともと変なやつだったからね」
「だいたいバンドマンでまともなやつなんていないから別に驚かないよ」
って思うかも?。


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白根山噴火はしても草津温泉は安全ですので、どうか皆さんも草津温泉へいらして下さい。
草津温泉.jpg
上野駅から「特急草津号」で終点「長野原草津口駅」で降り、駅前の「草津温泉行き」バスで「草津温泉バスターミナル」へ。
高速道路なら、関越道の渋川伊香保ICで降りて国道353号、中之条町から145号、長野原町から292号、で草津温泉です。
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ブラスバンド部(青春の思い出とか 3) [昭和]

私は中学生の頃はブラスバンド部に所属。
担当はパーカッション(打楽器)でした。
思えば、これが後々の人生を狂わせる間違いの元ではなかったかと・・・。
県内の中学校の中では我が校は優秀な方で、県大会では2位になり関東大会への出場権を獲得。
目出度く神奈川県で行われる関東大会へ。
関東大会はさすが強豪校が多く見事駄目でしたが、大会場で人様の前で演奏するという喜びを知ってしまったんですね(笑)。
オマケにブラスバンド部員は練習や出場のため授業を一部免除!。
これには優越感を感じちゃいました、何か特別な地位を得たように感じて。
根がもともと単純で馬鹿ですから。

当時は聴くのはクラシックで、モーツアルトとかシューベルトとか聴いてました。
おそらく同年代の少年たちで聴く人はごく少数だったと思いますし、カッコつけてると思われるかもしれませんが、私の場合勉強のためというのもありましたので。
実際、ブラスバンド部を辞めてからはまったく聴かず。
で、歳とった最近また聴くようになりました。
若い頃は退屈で聴く気しなかったんですけど、今はとても心地良いんです。
特にバッハが大好き!。
聴いていると心が洗われるような気がします。
それに、ドビュッシーやフォーレ、サティなどのフランス近代音楽。
音が宙に浮かんでるような心地よさを感じます。
人間歳とると初心に返るようで、いろいろと道草食った後、結局最後は自分が最初に始めたものに戻るようです。
ハード・ロック・バンド(ヘヴィ・メタ)、ディープ・パープルのキーボード奏者で癌闘病後亡くなった「ジョン・ロード」も晩年はクラシックのアルバムを発表してました。
彼はもともとクラシックの人だったからでしょう。

ところでこの間、久しぶりにドラムスティック握ってみたんですが。
ドラムばち.png
全然駄目でした・・・。
内心、まだ叩けるだろうという自信多少あったんですけどね。
やっぱり練習してないと駄目ですね。
また練習始めようかと一瞬思いましたが、ピアノも満足に出来ないのに二足の草鞋は無理と諦めました。
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年越し蕎麦〜駅蕎麦〜追想 [昭和]

明日は大晦日、年越し蕎麦の日ですね。
お題としては本当は明日書くべきなんでしょうが、書きはじめてしまいしたのでこのまま書くことにします。。
クリスマスケーキは食べませんでしたが、年越し蕎麦は毎年食べます。
明日はお蕎麦やさんは朝から大忙しのことと思います。

私は家で食べますが、明日も仕事という方は駅蕎麦で済ます方もいらっしゃるかと。
そう言えば、駅蕎麦ってもう何十年も食べてません。
電車に乗らないから駅に行かない、だから駅蕎麦を食べる機会もない。
もちろん駅に行けば食べられますが、そこまでして食べるものでもないし・・・。
今はスーパーやコンビニの蕎麦でもなかなか美味しいですからね。
とは言うものの、駅蕎麦時々無性に食べて見たくなるんですよね。
東京に居住していた頃は駅蕎麦、立ち食い蕎麦をよく利用しました。
何より手軽で安いし、時間のないときは重宝しました。


今食べたくなるのは美味しかったからじゃなくて、たぶん若き日への郷愁なんでしょうね。
昭和時代(50年代)、池袋の地下街や神保町付近を歩き回っていた若き日の自分を懐かしみたいのだと思います。
池袋西口の地下街ホープセンター(今もあるんでしょうか?)の立ち食い蕎麦屋で、天ぷら蕎麦と稲荷寿しを食べてから出勤するのが日課でした。
出勤といっても当時やっていた仕事は生活するための腰掛け程度と思い、胸には野心を秘めておりました・・・・・、でも。
夢を追って、いつもどこか満たされない気持ちで生活していた日々。
現実に跳ね返され、少しづつ後退して行く事実を認めざるを得なくなったあの頃。
そして都落ちへと・・・。

大晦日を前にして、20世紀の幻影を追想する私でした・・・。
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昭和の商店街 [昭和]

ブログのネタでも探そうかと、自転車で中心商店街へ行ってきました。
普段はデパート行くだけなんですが、どんな店があるのか観察するのも良いかと思いまして。
いままで気づかずにいたのですが、よく観察してみると昭和から続いてやってるお店は皆無ということでもなさそうで、意外と残っているようです。
たぶんお店の経営者はその土地の所有者なんでしょうね、家賃払ってなら経営を継続するの難しそうですから。

何と私が高校生の頃アルバイトをしていたレコード店(CD店)がまだやっていたのは奇跡でした。
いまやレコード店(CD店)など全滅かと思っていましたが、老舗の複合店も含めると2店生き残っておりました。
中高生の頃、お昼を食べた食堂がまだやっていて、定食の看板が当時と同じように出ていたのが嬉しかったです!。
他にあるお店はというと。しょっちゅう経営者が変わっている感じの洋品店(ブティック)、靴屋、八百屋、昔ながらの食堂、花屋、和菓子屋くらいしか見当たりません。
しかもどのお店もお客さんの姿はなし・・・。
面白いのは中心市街地にはどこでも見かけるはずのコンビニもテイクアウトのお弁当屋さんも何故か見当たらず。
中心市街地をちょっと外れるとコンビニが現れますが、お弁当屋さんは郊外へ行かないとありません。
いままで気がつかなかったのですが、地方都市ってみんなそうなんでしょうか?、それとも我が街だけの現象なのでしょうか?。
まあ、それだけ中心市街地には人が集まらないということなのでしょうけど。

昭和時代は、うちの近くにもかつては商店街があって、通りを端から端まで歩くと一通りの生活物資は揃ったものです。
で、週末や休日は近くの地元商店街では扱っていない物を買いに中心商店街のデパートなどに買いに行く。
ちょっとした衣料品は地元商店街を歩けば買えるけど、お洒落したいとかちょっと高級な衣料品は中心商店街に買いに行く。
食堂は近くにもあるけど、本格的なレストランは中心商店街へ行かないとない。
電球や電池なら近くで買えるけど電化製品は中心商店街へ買いに行く。
中心商店街はいつも人で溢れてて、土日ともなると近隣市町村からも大勢やってきて更に混雑してました。
移動も徒歩、自転車、路線バス、電車。
今は空気を運んでる路線バスはいつも座れないほど人が乗ってました。

そんな商店街も商店が消滅し今は車が通るだけの単なる生活道路に。
今はちょっとした物はコンビニで、あとは車でローダサイドの量販店に行って「ドア・トゥー・ドア」でお買い物、ということですね。
批判してるわけではありません、私も今はこんな感じ。
でも、また昭和時代の活気のあった商店街で買い物したいなーとか時々思ってます。
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コロッケパンと瓶コーラ [昭和]

昨日「太りました 2」を書いてて、10代の頃はいくらカロリーの高いもの食べても太らなかったのを思い出しました。
13〜4歳、やっと体も丈夫になり遅ればせながら人並みに食欲も出てきました。
それまでは食事の時間が苦痛で、出されたものを完食することは稀でした。
今思うと食欲が出るのがもう少し早ければ、体も大きくなれた(せめて160cmオーバーになりたかった)のでは?と悔やまれます。
育ち盛りに食べられなかったのは致命的だったと思います。

で、当時の私の大好物を思い出しました。
「コロッケパン」と「瓶コーラ」です(笑)。
コロッケパン.JPG
コーラ.jpeg
小学生まではお昼は給食でしたが、中学に入ると弁当持参か学校内で昼食時に売りにくるパンをい購入するかでした。
うちは母親がまったく料理のできない人で「面倒だからパンを買いな!」と、毎日お金を渡されてパンを買って食べてました。
そんな校内販売の「コロッケパン」がとても美味だったのです!。
もっとも「コロッケパン」なんてどれ同じようだから、食欲が出てきてみんな美味しく感じたのかも知れませんけどね。
ついには学校休みの日や土曜日(当時は土曜は休みではなく午前中は授業がありました)もお昼はいつも「コロッケパン」に。
学校ではコーラは売ってませんでしたので飲めませんでしたが、学校の無い日は「コロッケパン」と「瓶コーラ」のゴールデンコンビ!。
500mlの瓶コーラを飲みながらコロッケパンを食べるのは私にとって至福の時となりました。
当時はダイエットコーラもカロリーゼロのコーラもなくて砂糖てんこ盛りのコーラだけ。
コーラはほぼ毎日飲んでたので、今思うと毎日凄いカロリー摂ってたことになります。
でも太りませんでしたね、新陳代謝の高い年頃だったからでしょうか、今なら1ヶ月も経たずデブ化間違いなし。
クリスマスが近いせいか?、コーラのCMやってますけど、もう何十年も普通の砂糖入りコーラ飲んでません。
今飲むのは低カロリーの飲料ばかり・・・。
「コロッケパン」も炭水化物+炭水化物ということでほとんど食べず。
本音を言うと、昔のあま〜い「コーラ」とソースのたっぷり付いた「コロッケパン」食べたいんです(笑)。
でも、コレステロールとか中性脂肪だとか血圧とかが・・・。
あ〜あっ!、歳はとりたくない!。

関係ないですけど、CMでやってるリボンの付いたコーラは素敵ですね!、ボトルだけ欲しいかも?。
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江戸川乱歩〜戦前の社会 [昭和]

Amazon見てたら凄いのが出てました。
Kindle版電子書籍「江戸川乱歩 作品集 全120作品+11」
江戸川乱歩の電子書籍ですが、何が凄いって値段が凄い。
133作品で199円!。こりゃ、タダみたいなもんですよ!。
最近、電子書籍やミュージックダウンロード(特にクラシックと50〜60年代ジャズ)に、こういったタダ同然の商品多いです。
著作権切れなんでしょうかねえ?。
いままで、クラシック100曲で100円とか150円とか、ジャズではビル・エヴァンス120曲で600
円とかマイルス・ディヴィスとか買ってみました。
私は音質はこだわらない(わからない)ので概ね満足してますが、こういった類は曲が多すぎて聴くのが大変ですが(笑)。

以前、老眼じゃなかった頃。推理小説(島田荘司、折原一、井上夢人、などなど知ってる人は知っている!)を読み漁っていたことがあって、読むものがなくなって戦前の作家にまで手を出したことがあるんです。
それが、江戸川乱歩や、夢野久作、金田一耕助でお馴染みの横溝正史などです。
特に戦前の作品は、今と違う時代背景が何かセピア色の写真を見ているようで、小説に書かれた戦前の東京や日本の風景、生活、社会描写は、どこか懐かしくて強く惹かれました。
戦前とは繋がっているはずなのに、太平洋戦争を境に分断されている。
戦後は明るく、民主主義と復興と高度経済成長、そして先進国へ。
戦前は軍部独裁と思想弾圧、持てる者である貴族や大財閥、持たざる者である小作農民や細民などの極端な格差社会。
1945年(昭和20年)を境に、私はまったく別の社会と認識していました。

戦前.jpg
東北大飢饉の頃の農村と大都会の様子。
戦前1.jpeg

でも戦前の小説を読んだり資料を見ていると、どうもそんな単純に分けられないと感じるようになりました。
確かに戦前は今よりずっと貧しかったかも知れませんが、今と同じ普通の日常があって人々の生活があった。
母親がまだ生きていた頃。何度か「戦前ってどんな感じだったんだい?」と聞いてみたことがあったのですが。
母の答えは決まっていて「今と同じだよ」という答えでした。
私は、そんはずはない!と、内心強く反発しました。
ちょっと体制を批判したり逆らったりすると、特高(特別高等警察)に引っ張られて拷問を受ける、そんな恐ろしいイメージがあったからです。
しかしながら、共産主義者など特別な思想活動などしていた人たち以外は、特高などとは無縁の普通の生活を送っていたのではないでしょうか?。
もちろん弾圧がなかったわけではないでしょう、今の感覚からすれば到底容認できないような思想への介入はあったと思います。
戦時中は別でしょうが戦前の日常は意外と平穏だったのではと、今では想像しています。

ということで、一時期は戦前のことが知りたくて、写真や資料や小説を集めたこともあります(宝塚少女歌劇団はその一部)。
江戸川乱歩は古本屋などまわって、「少年探偵団」以外はあらかた集めたんですが、引越しの際ほとんど処分してしまいましたので「江戸川乱歩 作品集 全120作品+11」199円は、私にとっては朗報です。
電子書籍なら文字を大きくできますし、江戸川乱歩をまた読み返してみようかと思います。
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